社会人生活10周年を機に、仕事をescapeして韓国へ語学留学。          帰国後、韓国語を活かしながら(!?)日本語で仕事をしています。          2010年、目指せPerfect Year!


by ringringkorea
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Promise In The History

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韓国出張から帰ってきて約半月、とにかく忙しい日々だった。
帰国直前、韓国人の親友の自殺という哀しい知らせを聞き、
たくさんの想い出と、いろんな思いが幾度も浮かんでは消え、
寂しいとか、苦しいとかでもない、複雑な気持ちを抱えている。

その親友である韓国人、HJと知り合ったのは5年前、東京で。
当時参加していた、韓国語のサークルを通して出会った。
韓国人のメンバーは、20代前半の留学生が多かっただけに、
歳も近く、社会人経験も豊富なHJとは、自然と仲良くなった。
30代も半ばになってから、日本に語学研修に来ていたHJは、
当時同じく30代で「韓国留学をしたい」と思っていた僕にとって、
憧れの対象であり、その前向きな姿勢に随分と影響を受けた。

韓国語を教えてもらうかわりに、僕が日本語を教えた。
しかし、日本人だからといって、うまく教えられるわけではなく、
その後僕は、日本語教師の養成講座にも通った。
養成講座は約半年、受講にあたり随分お金もかかったけれど、
韓国留学に行ってから、いろんなところで大いに役立った。

東京の街で、HJと週に2回のペースで言語エクスチェンジをし、
終わるといつも、ふたりで韓国料理を食べに行き、酒も飲んだ。
ふと思うと、もっと日本の料理を食べさせてあげるべきだった、
食べさせてあげたかった、といま少し後悔をしている。

それでもHJの3ヵ月の語学研修の最後、1泊2日だったけれど
一緒に北海道を旅行し、美味しいものをいろいろ食べた。
真冬だったが、レンタカーで小樽や洞爺湖まで足を伸ばした。
この旅行のことは、その後も思い出しては感謝され続けた。

東京で印象的だったのは、いつもHJとふたり韓国料理屋で、
お互い拙い韓国語と日本語で、議論を交わしているのを見て、
お店でバイトをしている韓国人留学生たちに不思議がられた。

拙い語学力でよく会話が成立しているな、ということではなく、
自分は日本に来てだいぶ経つが、こんな風に対等な関係で、
親しく話ができる日本人の友人はいない、というものだった。
率直に「うらやましい」という言葉も、何度か言われた。

「日韓の間の越えられない壁」があるとも思っていなかったが、
そんな話を聞き、逆に少しずつ意識するようになっていった。

そして実際に、文化や習慣、認識の違いを感じるようになり、
それによって、周りを巻き込んでのトラブルも起きてしまった。
いつの間にか、それ程に深い関わり合いをもつようになっていた。

ここでは詳しく書けないけれど、彼には随分と迷惑をかけられた。
でももしかしたら、僕の方こそ迷惑をかけていたかもしれない。
イヤな思いもしたし、悲しくて苦しい思いもいっぱいした。

ただ、そんな気持ちを、HJとその家族が埋め合わせてくれた。
韓国留学に際し、僕は彼の家でホームステイをする事になり、
家族同然に受け入れてもらい、僕もそれに自然と甘えていた。
今もそのあたたかみを憶えているし、今は思い出すと涙が出る。

しかしその後、ふとしたことからHJの生い立ちが明らかになり、
ホームステイ先の家族の絆の強さが、一気に崩れ去ってしまった。
当時このブログにも書いたが、HJは元孤児で養子だったのだ。
「なんでこの歳になって、知らされなければならないのか・・・」
怒りと哀しみと苦しみにあえぐ、HJの背中を想いつつも、
僕はホームステイ先を離れて、ひとり留学生活を続ける事にした。
当時の自分には、どうにもしてあげられない状況だった。

今の自分ならば、多少でもなんとかしてあげられると思うのは、
HJが抱えていた問題のそのほとんどが、お金だった。
実は彼には、離れて暮らす小学生の子供が2人居たため、
常に多額の養育費を必要としていた。また、他にも事情があった。

子供に塾通いをいっぱいさせていて、その費用を捻出するため、
自分自身の首がまわらなくなるほどだった。
僕はそれを見ていて、正直呆れてモノが言えなかったけれど、
そうやって無理をしてでも、周囲に見栄を張らなければならない、
それが韓国社会なのだ。

しかし彼は、自分が養子だったという事を知らされたがために、
無理をしたくても、自分の親きょうだいに頼る事ができなくなって、
結局、どんどん八方塞がりになってしまっていったのだと思う。

最期は、高校生までを過ごした故郷・全羅南道へ帰り、
幼なじみらを頼りに、光州の街で仕事をしていたと聞いた。
それでも結局、厳しく辛い現実を変えることができなかったのか、
打ちひしがれるまま、彼は自らその命を絶ってしまった。


***
彼自身は孤児だったけれど、自分には子供が居るのだから、
それでもなんとか寂しさを、哀しみを、乗り越えてほしかった。
今は苦しくても、またいつか笑顔で会いたいと思っていた。

今はもうこの世の苦しみから解放されて、楽になったかな。

昔の僕は、自ら命を絶つなんて絶対に卑怯だと思ってたけど、
今はそうでもないかもしれない。逆に救ってあげられなくて、
最後に何もしてあげられなくて、本当に本当にごめんなさい。

***

4年前、韓国留学出発と共に始めたこのブログですが、
今回のエントリーをもって、終わりにしたいと思います。

読んでくださっていた皆さん、ありがとうございました。

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# by ringringkorea | 2010-10-05 00:46